映画『トラペジウム』を観て
人間は、その人格を尊重し、それを手段としてではなく、常に目的として扱うべき存在である。
【トラペジウム】
オリオン星雲の中にある四つの重星。非常に高温で強い紫外線を放ち、星雲全体を光らせる。
――デジタル大辞泉 小学館
はじめに
映画『トラペジウム』を観た。友人に誘われたためである。友人はこの映画を観て目を見張り、人のふるまいへの興味に打たれたそうだ。私も観て、友人と議論が弾んだ。せっかくなので、その記録を残しておく。
注意
既に映画を観た前提で語りを進めていく。
- 「ネタバレするけど、観ているから大丈夫だろう」
- 「情景を詳しく回想しないけれど、観ているから大丈夫だろう」
と筆者は思っているため、未視聴の方へは不親切な内容だと思う。未視聴の方の閲覧はお勧めしない。
また、この映画は明らかに万人受けを目指していない。この映画が心に響くかは、何に興味を持っているかに拠る。
物語の概要
まず、物語について思い出していこう。
登場人物は以下のとおりである。
- 東ゆう 東の星。アイドルになることを第一目標に活動する。
- 大河くるみ 西の星。ロボット研究会に所属し、高専ロボコン優勝を目指す。
- 華鳥蘭子 南の星。お蝶夫人にあこがれて、テニス部で活動する。
- 亀井美嘉 北の星。居場所を求め、ボランティア活動に参加する。
あらすじは以下のとおりである。
- アイドルになることを目標に活動する東ゆうは、「東西南北の星」でチームを結成しアイドルとして活動する計画を立てる。メンバーを集め、絆を形成することに成功する。
- アイドルとして活動を開始する。当初こそ上手くいっていたものの、メンバーの生活や特性と活動が乖離していき、<破局>を迎える。
- 東ゆうは罪を自覚する。自身の夢のために人を手段として利用し、害を与えた罪である。自身の善性と悪性を確認し、友愛を獲得し、メンバーと再会を果たす。
物語の構造 - はじめからすべてを
この物語は複雑ではなく、かなり初期から結果が予想できる構成になっている。四人でアイドルをする計画が破局することも、各々がそれぞれの夢を追わなければハッピーエンドにはならないことも。ドラえもん的な「小さな物語」になっており、好感が持てる。
大河くるみが破局を決定的なものにすることは、取材に参加しない姿勢などから特性がアイドル向きではないことを示唆していた。将来像については言うまでもなく、最後に答え合わせとして登場する写真が物語っている。
主人公の特性 - 善性と悪性
この物語において、打ち倒すべき悪は主人公自身のなかにある。そのため、主人公は感情移入しにくく描かれ、観客は批判的視点から観ることができる。なぜなら、この物語は主人公の成長譚だからである。
視聴後、喫茶店で私は友人に、「終始一貫して、行動の前にストップが効きにくい人物として描かれている」と指摘した。彼女が自身の行動がもたらすことを自覚するとき、たいてい行動は終わっている。
- アイドルが SNS に愚痴を書き込むことの意味について自覚したのは入力を終えてからだし、
- 「友達にならなければよかった」旨の発言について謝罪したのは後日になってからだし、
- クラスメイトからの冷やかしへ応酬したことについて、後から悔やむし、
- かつて自身が反射的に発した言葉が亀井美嘉を救っていたことに気づいたのは、物語終盤になり本人からそれを伝えられてからだった。
自身で制御できない以上、結果を決めるのは状況である。
一方で、主人公は事前に立てた計画を遂行することができる。目標のためなら計画を変更する柔軟さも持ち合わせている。華鳥蘭子はメンバーが東西南北から集まったことを奇跡のように言うが、その奇跡は主人公により設計されたものである。この能力は、他者を手段として使役する残酷な力でもあり、奇跡を設計する力でもある。
彼女は自分が嫌なやつか親に聞き、「どちらの特性もある」と諭される。まさにその通りと言えよう。
主人公の成長段階 - 罪を知り、そして
主人公の成長段階について、私は前期と後期で分類すべきだと主張した。一方で、友人は三つの段階に分けられると主張し、議論に発展した。結果的に、「彼女の内面と外面の両方に視点を置けば、三つの段階に分けられるだろう」という結論に達した。
その前に、カントの主張をひとつ引用する。
損得・利害関係なしに、誰に命令されたわけでもなく、自らの意志で「それが義務だから」という理由だけで行動する、意志の自律こそが人間の自由である。
このような自律の力を持つ存在を人格と呼ぶ。
人間は、人格を持つがゆえに尊重されるべきである。
人間は人格として、自分であれ他者であれ、手段としてではなく、常に目的として扱うべきである。
- はじめ、主人公は自分や他者を手段として用いる。しかし、この時点では絆を築くことが目的であり、偶然にも手段と目的が一致している。そのため、関係は良好である。
- だが、アイドルとして活動が開始したため、目的と手段が乖離してくる。手段とはすなわち自身を含むメンバーであり、関係は破局する。
- 主人公は自身が犯した罪を自覚し、自身の善性と悪性を確認する。ここではじめて自身や他者を目的にできるようになり、友愛を獲得する。
これは、主人公が自身や他者を目的にできるようになり、友愛を獲得する物語である。まさに成長譚であり、人間を描く。
むすびに
友人は「主人公は登場人物の中で最も人間くさいキャラクターだ」「人間はやはり面白い」と語っていた。ニャルラトホテプのような視点からものを見る人物である。しかし、主人公が最も人間くさい、そしてこれは人間を描いた物語だ、という点では私も同感だった。
私としては、「人間自体を目的として描く」「ドラえもん的な小さな物語」という二点に好感を持った。昨今において珍しいのではないだろうか。現代の萌えアニメ的ではない、リアル調の絵柄や声優で物語を描く道もあったろうに、とも思った。少なくとも選択肢には上がったはずだ。この作品が描くものは萌えアニメ的ではない。しかし、「裏番組」的な立ち位置や乃木坂的なカッコよくもかわいい姿を目指したのか、あるいは原作のリアリティラインに合わせたのか、何らかの判断があったのだろう。これでいいのかもしれない。
友人はネットを見て、主人公が人間っぽくない、などという旨の感想が投稿されているのに腹を立てていた。言うまでもないことだが、この主人公ほど人間くさい登場人物はいない。主人公はあえて感情移入しづらく造形されており、私たち観客は常に作家の掌の上にいることを忘れてはならない。
その話で行くと、華鳥蘭子はなんなんだこいつ。強すぎるだろ。いちばん人間離れしている。親の教育が著しく良かったに違いない。