ソフィ・カルとともに死を見つめる
三菱一号館美術館の『不在』展 を見てきました。
今日、私の母が死んだ
(Sophie Calle, 2013)
今日、死について記述することができるでしょうか。プラットフォーマーは死を検閲します。それは多くの場合、何かを思うような余裕がない人々によって語られるからです。結果、愚かな文脈に添えられることがままあり、それを見た経営者はすべての死を十把一絡げに削除します。
カルの話をしましょう。
自伝 - Autobiographies
Sophie Calle (1953) は、フランスの芸術家です。Wikipedia を見ると、親密な関係をテーマにしていることが書かれています。
今回のテーマは「不在」でした。親密な関係と、そこにいないというふたつのワードが組み合わさると、永遠の別れについて考えざるを得ません。
カルは母、猫、父、そして自分の死を見つめます。END 標識の写真には、そこに至った最愛の人々への言葉が添えられています。
カルは 70 歳を過ぎています。彼女は墓地を契約しました。管理人に「もしいま死んでしまったら、埋葬はどうなるのか」と問い合わせると、「Fedex で遺灰を送ってくれれば対応する」との返事がきます。これで、彼女は死ぬ準備ができました。
本当に?
彼女は、自身が企画展までに死んでしまうのではないかと恐れていました。三菱一号館美術館は、これまで生者の作品を展示したことが無かったからです。企画展は 2020 年に実施される予定でしたが、新型コロナウイルスによってすべてが台無しになりました。実施は 4 年を待たなければなりませんでした。これは、恐れを悪化させました。
彼女は、死んだ父の連絡先をスマートフォンから削除することができませんでした。もういない父にメッセージを送ってしまうことがありました。返信がありました。
どちらさま?
不意に訪れる死。ゆっくりと訪れる死。私は前者の前触れ程度であれば身をもって知っていますが、後者は経験がありません。後者について語れるのは、家族や友達のことだけです。
幸いなのかはわかりませんが、彼女は準備する時間があり、語る時間がありました。私は、その語りを聞いてきました。
会話
ソフィ・カルは、死や不在そのものではなく、その「外縁部」の記述を通じて、間接的にそれらを語っているようにも思えました。プラットフォーマーの例で言えば、放置された故人の SNS アカウントの最後の投稿について語るようなものでしょうか
(Leafsketch, 2025)
そうかもしれません。言われてみれば、一貫して死そのものは出てきません。唯一生々しいものは本人が横たわる写真ですが、言わずもがな、彼女は生者です。言う人なら「死について語るのなら死体を出せ」と言うでしょう。しかし、彼女はそうしませんでした。
何も入っていない額縁を見て、何を思うのか。それがテーマのようです。