魂をふるわせるマシン - 読書メモ
とある方がバイブルにしていると聞いて、前から読んでみたかった本です。ちょっと気が引けてしまうタイトルかもしれませんが、要するに「クルマと猫のはなし」なので身構えることはありません。あ、でも、クルマが好きな気持ちをちょっと知るつもりで読んだほうがいいかも。
今回はネタバレ無しです。
魂の駆動体
- 著者: 神林長平
- 出版社: 早川書房
- 出版年月: 2000 年 03 月 15 日
- ISBN: 9784150306342
- ページ数: 484
第一部 あらすじ
養老院で暮らす〈私〉と子安は、廃車となったプレリュードを発見する。亡き父がレストアしたクルマと同じものだ。いまでは公共の自動運転車が普及し、個人が所有するクルマは失われて久しい。〈私〉は自己を確認する手段としての、「魂の駆動体」を求めて、自動車の設計を始める。
第二部 あらすじ
翼人のキリアは、かつて存在した人間文明を研究するため、人間の身体に変身して暮らし始める。そこに「クルマの設計図を発掘した」との知らせが届き……
感想
魂の物語が好きだ。別の世界の存在を可能にする魂だが、これについて語るとカントやニーチェを経た世界に生きるあなたたちに、ちょっとギョッとされるかもしれない。でも好きなのだ。理屈ではない。なんとか現代科学と共存させられないか。それこそ、ちょっと前に読んだ『私はどこにあるのか』と結びつけられないか。理屈ではないと言った途端に理屈を考え始めてしまう。SF 好きはこれだからダメだ。意識で考えず、魂をふるわせる体験をすべきなのだ。
わたしの意識とは異なるレイヤーにあるわたし、魂をふるわせる、魂を駆る身体、魂の駆動体としてのクルマを生み出し、駆る物語。これを神林長平が書いたというのだから面白くないはずがない。以上。
さて、ここからは理屈っぽくなる。要するに妄言だ。
神林長平作品には、中央集権的に統御された、みんなの共有物としてのマシンと、わたしの魂と結びついた、わたしの所有物としての、ぼくのマシン、という対比がよく登場する。『いま集合無意識を、』では Twitter への言及もあった。つまり、手元にある機械はシンクライアントな端末に過ぎないという描写だ。それでは魂を駆動できない。魂をふるわせるのは、ぼくのマシンだ。
それは子供っぽい、時には屈折した願望から生み出される。Mastodon 界隈なんかはまさにそうだろう。大企業からオプトアウトし、おのおの自前の資源で運用する、ぼくのマシンで食らいつこうというのだから、アウトバーンで大暴れする GTI そのものだ。
Bluesky が、分散していない、と批判されるのもよくわかる。Bluesky 社から完全にオプトアウトしようとするには、多量の資源が必要だ。個人では用意できそうもない。多くの組織なら可能な程度だが、それでは、ぼくのマシンではない。気ままにドライブできるような代物ではないのだ。
分散 SNS 集会に参加してくれる方々からいくつか意見を聞くことがある。ひとえに分散型 SNS 愛好家と言っても、その内訳はじつに多種多様だ。
- 資源を持っている人が友達や家族を連れて駆動できれば満足とする場合
- 自分と相手以外のだれにも駆動をゆだねるべきではないとする場合
- ネットワーク参加者の少なくとも過半数の合意を必須と考える場合
- それなりの権威を持つ機関による審査プロセスがあって満足とする場合
覚えてなかったり聞いてなかったりするだけで、ほかにもさまざまな意見があると思う。だが、ぼくのマシンを理想とする意見はこれだと思う。
- 自分と相手以外のだれにも駆動をゆだねるべきではないとする場合
Mastodon 界隈の、特におひとり様サーバはこの例だと思う。この場合、ユーザに介入してくるのは ISP やドメインレジストラによる審査くらいなものだ(もちろん悪さをすれば誰かが通報して警察が来る。それはどこでも同じだから、あえて言うまでもない)。
あるいは、P2P のセキュアスカトルバットもこの例かもしれない、と思ったのだが、ちょっと詳しい仕様まで覚えていないのでよくわからない。言及はやめておこう。いちおう説明しておくと、セキュアスカトルバットは、とある船乗りが作った P2P の SNS だ。その船乗りは、船出をするとたまにしかデータ通信ができなくて、常時接続を前提とした Twitter が使えないことに絶望した。結果、たまに接続できたときに一括してデータを交換する、P2P の SNS、セキュアスカトルバットを作ったのだ。
これが後世のソーシャルメディア・プロトコルに大きな影響をもたらすのはべつの話。
どっとはらい。